自分という存在の矛盾
皆様は「これ矛盾してるな〜」という自分の態度や在り方を自覚することはあるでしょうか。
私については、自粛期間で内省的な思いを蓄積するようになって以来、常に感じるようになっています。それのせいで、苦悩したり、あるいは逆にそのおかげで救われたり、いろいろと振り回されているわけですが、今回はそういうお話をしたいと思います。
ヒトって矛盾だらけだ
まず私がという話以前に、私が人であるゆえに感じる矛盾、すなわち、皆様も感じたことのある矛盾について考えたいと思います。ひとつ、明らかなのは、生命体であるにもかかわらず文化を手にし、自由を手にしてしまったことです。
なんのこっちゃという感じですが、生命体の本能はその種の存続および繁栄にあるとされています。そのため我々には防衛本能であったり、それに付随する情動が備わっているのです。しかし、文化という生命の本能の軸からしたらほとんど完全に直交する成分である文化、そしてそれを享受できる自由を手にした現代の人類はもはやその存在自体矛盾であると言って良いでしょう。いまや街の路傍で生殖行為をする者などいませんし、それは文化、文明という生命として以外の生きる意味が支配的になっていること、またそのような行為はもはや不適切であるという管理、統制が当然になっていることに起因します。
もう一つ挙げるとするならば、現代では世界でもっとも取り沙汰されている概念であるところの、「多様性」です。現代どころか、ダーウィンの進化論でもお話されているし、神経科学で議論される知能の発達でも、多様性というワードは使われます。それほど、生命と多様性は密接な関係にあり、重要なダイナミクスとして我々を進化させてきました。我々と、我々の構成要素であるところの細胞、もちろん我々の祖先もですが、多様化と淘汰を繰り返しながらここまでその枝を伸ばし、たまには剪定されてきたのです。しかし、現代において多様性はどう捉えられているでしょうか?
現代では、「多様性」を盾に、もはや剣として弱者が、マイノリティが、対する存在と睨み合っています。それならまだ良いのですが、弱者だけではなく弱者のふりをした者もそれに与しています。その影響か、本来なら報われるべき性質を持った者どもが、憎まれる存在としてそれ以外の人々に捉えられてしまっています。例を挙げるなら、被差別、性同一性障害、貧困、といった性質です。フェミニストは顕著な例だと思います。それにも関わらず、現代において人類は基本的に他者との関係が不可欠です。そのため、自分が憎む性質を備えた人と関わることもしばしば、すなわち、一触即発の状況があちらこちらでみられるということです。お分かりの通り、SNSは恐ろしい事態にほどその即発に拍車をかけています。結局のところ、多様な人々の性質はお互いを憎み、不信用、争いにつながることに貢献してしまっているという現状なのです。
私と書いて矛盾と読む
ここまで、人類の矛盾の話をしてきましたが、いよいよ私の話をしましょう。これが本題です。
一つ、人と関わりたくないのに関わりたい
はい、全く意味がわかりませんよね。自分でもよくわかりません。
人と関わることについてよく考えるようになったのは大学生になり、人と関わるかどうかをある程度取捨選択できる状況に遭遇するようになってからです。すると私は、可能な限り全てを切り捨てました。完全にぼっちが完成します。当時の私はそれで夢のような生活を手に入れてしまいました。面白い趣味や勉強も1人でできる範囲でさえこの人生でやり尽くせないことを知り、もうこれをやり続ければ、そこそこは充実して死ぬことができるなと感じました。この期間は今の私を形作る重要な体験でしたが、同時に自分の中に矛盾を作ってしまう要因にもなりました。完全なぼっちとは言っても、完全なぼっちではありません。講義や演習のグループとしてのコミュニケーションであったり、高校でも友人はいましたし、その関わりも継続しています。すると、そのわずかな他者との関わりがものすごく自分の中で価値の高いものになっていて、それは過剰なほどに、もはや薬物のように自分に作用してくるようになりました。つまり、また他者とのコミュニケーション、つながりが欲しい、という念が1人でいる間も渦巻くことになるわけです。でも、やはり他者という不確定存在がいない、信用が100%にならない存在との関与がない状態は自分にとって理想的で...。こういうことを今までずっと思っています。恋愛というものができないのもそれゆえです。他人を好きになることはできず、でも他人と仲が良くないというのは嫌だ、みたいな面倒くさい感情を抱いています。どう解決すべきか、ミレニアム懸賞問題に推薦いたします。viXraのトンデモ理論でもなんでも募集しています。
一つ、時間を無駄にしたくないが無駄にしている
これはみなさまも共感できると思います。なぜかというと自分はまだ他人よりマシな怠惰だと思い込んでいるからです。どんぐりの背比べだというのに。
現代人は時間にとても余裕がないとされています。確かに、何かしら予定がないともはやこの世に自分が存在している意味などないかのように感じてしまうことは多いです。また、私の話ではありますが、「人はいつか死ぬ」はほとんど事実でしょう。ほとんど、というのは経験則でしかないからです。死は不可逆な変化がゆえ、自分と近しい構造をもった存在のそれを観測することをもってして、演繹することでしか自分事として考えることはできないのです。私はこの目で死者や、今まさに死ぬところを目撃したことはありませんが、顔や声、会話したという経験すら記憶に残っている人間の死を経験したことはあります。それ以来、私はこの人生というものには限りがあって、その残量は自分の意識でコントロールできず毎秒毎秒滴り落ちていっていると自覚しました。「メメント・モリ」と言うように、人はいつか死ぬのです。それなのにいつまでも堕落していたら、本当の意味で穀潰しにもならずこの世に生まれても生まれなくても何の変化ももたらさない存在になってしまいます。タイムマシーンで過去の自分の誕生の事実だけ消して現代に戻ってきても、自分がいない以外何も変化のない世界が広がってしまいます。ハイデガーも「存在と時間」において、人が人らしく生活できるのは、死に向き合った時だと述べているといつかの講義で聞きました。それだけ、人生の時間は無駄にしてはいけないし、私は無駄にしたくないと思うようになっています。
一方でそのような理想を掲げた愚かな成人男性の現状はどうでしょうか。はい、時間を、人生を無駄にしています。例えば、今日は半日は暇であったにも関わらずYouTubeの配信を垂れ流しにしながらただCPUを倒すだけのゲームをしていました。本当は研究や、就活ですべきことがあるにも関わらずです。それをしないにしても、もっと勉強するとか、楽器を練習してみるとか、できたはずです。このような生活は今日に限りません。1週間のスクリーンタイムは平均およそ15時間です。そして、毎晩その日したことを振り返りながら、我に帰って自己嫌悪するのが常になっています。
ただ、現代は「無駄」が多すぎるというのはあると思います。例を挙げるならTikTokだの、YouTubeショートだの、またTwitterのタイムラインだの、全く興味がないのにずっと見続けてしまう人はとても多くいると思います。それに比べれば、まだみたいものを自分で選んでみている自分はマシだと言い聞かせて、また明日も「無駄」を生産していくんです。余談ですが、最近はevimaさんのえびまラボという数学、プログラミング系の解説動画をみてしまいます。勉強系だと自分が手を動かしていなくても何かしている気になってしまうのは良くないですが、まだそこらのしょうもないコンテンツをみるよりはマシだと(以下略)
おわりに
以上、私が持つ矛盾のお話でした。読んでくださった方はありがとうございます。
これを解消するにはおそらく何かしらのブレイクスルーが必要です。そのためにも、新しいことを日々経験していくことを忘れないようにしていきたいと思います。これも明日には矛盾していることでしょう。そんな自分も受け入れてなんとか生きていくこととします。
人間の価値って何?
どーも、私です。
一年振りにブログ的な何かを書きたいと思います。一年振りということなので今年、2024年に感じたことランキングTOP3(順位にはあまり意味はない)を発表したいと思います。
だらららら〜、だん!
- 自分の本質は常に受け身でだらけた姿だということ
- 他人を頼るのは大事だということ
- お腹が空くと力が出ないということ
出ましたね〜。これについて順番に書いてみたいと思います。
3位 : お腹が空くと力が出ないということ
これ当たり前でしょと感じるかもしれませんが、それは日々常識を疑うことを怠っている証拠です。あるいは私と同じく過去に経験をしたことがあるかということになります。今年は研究室に配属されたことにより、座り作業が増え、かつ移動時間が減りました。さらには机に向かったまま動きたくなく、食事を1日のうち2食をサボってしまうことが多くなり*1、そうするとどうなるか?ええ、何もやる気*2が起きないのです、不思議なことに。本当に何も食べないと動けないんだなと実感するとともに、自分がどうやら人間っぽいなという根拠が集まりつつあります。最近は外へ出て思いっきり遊んだり運動したりする機会がめっきりと減ってしまって怪我とかもしなくなってしまい、今の自分に血がちゃんと通っているのか心配になることもあるので、この時は少し安堵したことも覚えています。自傷に浸る人ってそういう側面も兼ねて行為をしているのですかね?ならば少し気持ちもわかるような、わからないような?*3
2位 : 他人を頼るのは大事だということ
これについても研究室に配属されたことに起因するものです。今まで私はやらねばならないこと、レポートとか提出書類とか、そういう類のことを自分の中で適当に処理し、他人がどうしてるとかその意見とかについては全く関せずに過ごしてきました。ですが研究に関してはそれでは済まされないようで、先行研究をしっかり調べてその手法を利用するとか、データを利用するとか、それらを用いて今為されていない何を為すのかを明にし、室内の教員や他のメンバー、または外の人間に説明できるようにしなくてはならないのです。そうなると自分の中である程度まとまっていても他人が理解できる記述ができているかなどは自分では理解できません。自己と他者は必ず境界が敷かれ、相容れないものなのですから、他人のことは他人に聞くしかありません。また普通に自分の知識だけではどうにもならない世界なので、進捗を大きくするためにも他者とのコミュニケーションは肝要です。今まで自分は他人に極力頼らないようにして生きてきたので、こんなことで、と思うかもしれませんがかなりハードルが高かったです。結局中間発表までの期間はギリギリで過ごしていました。他人に聞こうかな?いや、まだ自分で考えた方がいいかも?この繰り返しでなっかなか動くことができず、最終的には向こうからアプローチしてくださってなんとかなったわけなのですが、こういう経験を散々やっているとまあ友達が少なかったりするのも納得がいきます。別に多い方が良いと思っているわけではないですが。ということで困ったらすぐ頼るようにしたい*4なと感じた一年でした。
1位 : 自分の本質は常に受け身でだらけた姿だということ
これは就活だの院試だので自己PRをしなければならない、自分という存在を見つめなければならないフェーズに入ってきたこの歳だからこそ感じたことで、院試の書類に記述する専門能力欄に書くことがなさすぎて色々考えた結果、自分って何もしないことが本質としてあって、そこからうわべだけ取り繕ってそれがあたかも本質であるかのように振る舞ってなんとかしてきたんだなということを理解したわけです。それならば私が行ってきた全てが「専門」と言わしめるに至らないのにも説明がつきます。別に特段勉強ができたわけでも、プログラミングができたわけでも、知識があって様々なことに思慮を巡らせられるわけでもなく、嘘偽り*5の一切を禁止されていたならば今こうして将来を先延ばしにして呑気に趣味に耽っていることはなかったでしょう。
社会、出たくない
でも、思うわけです。こういう人間は自分だけではないということを。というか、PRできるような素晴らしい能力や実績などのアピールポイントを持つ人間の方が珍しいでしょう、多分。なのに問われるわけです。あなたの価値を教えてください、と。本当にこの社会はくだらんなと思いませんか?他人にアピールできる表立ったことだけが価値ではないはずなのに、特に社会で求められている価値って社会に入ってから身に付くことがほとんどだと思うのに、もちろんコミュ力とかそういうのは元から持っていなくてはならないと思いますが。まあ色々言ってもしょうがないですが、社会で役に立つことが絶対的に他の特徴より高く評価されてしまうのは少なくともおかしいとは言えます。こうした流れが現代の若者が何者かになりたい、アイデンティティが欲しいと嘆いていることの元凶と考えられるでしょう。
結論
結局何が言いたいかというと、本来なら価値って他人と比較できないものだと思うんです。テストの点数とか、体型とか、経験の有無とか、それで測れない価値が誰しもに内在しているはずで、けれどもそれを客観的な指標で確認することはできないだけ。でも社会ではそういったことは完全に切り捨てられて評価されてしまう。そこで自分の価値は丸め込まれた社会的指標それのみだと勘違いしないことが重要で、よく就活だの面接だので落ちたときにかける言葉として「相手の見る目がなかった」というのがありますが、まさにそうで、一側面だけを見た、荒削りの主成分分析の結果でしかないということを理解して社会を生きるべきだということです。確固たるアイデンティティは誰もが持っているはずなのです。そう考えると、劣等感に苛まれるとかはばかばかしい行いだと、この軸じゃない評価をすれば良いじゃないかと、先行きが不安な自分は多少は気楽になれると思うんです。
えー、なんの話でしたっけ?
という感じで適当に書いてみました。
就職、したくないです。卒論、書く気湧きません。よろしくお願いします。
Vtuber文化について
みなさま〜(超絶技巧)
Vtuber、その文化はキズナアイに代表される黎明期から多くの人々に認知され、新世代の発信スタイルとしてYoutubeをはじめとした動画投稿サイトにおいて人気を獲得していった。しかし昨今では発信のスタイルは動画から生配信へ、それに伴い3Dだったアバターも気軽に個人の環境で動かせるLive2Dへと移行していき当初の面影はもはや存在しないと言っていいほどとなってしまった。おまけに主観ではあるが、初期のニュートラル*1な姿勢は失われ、オタクに明らかに媚びている姿勢が汲み取れる。これは界隈がブルーオーシャン化してきているため、ファンを徹底的に固定化し投げ銭等を積極的に自身に投じて欲しいという競争理念からきているものと考えられる。
Vtuber、好きとは言いづらい
現在、VtuberのファンのことをV豚といい揶揄する表現がインターネットで散見されたり、善意や推し活の一貫として投げ銭をする人を馬鹿にするような意見を聞くことが多い。盲目的に推しに貢ぐような信者オタクというものはVtuberの潮流が来る前から存在しており、より可視化しやすい、界隈外から存在を確認できるものがVtuberオタクだっただけでそのような意見はどのコンテンツにもつきものである。しかしそのせいで新たに好きになった人や一度距離をおいていた人が他人にVtuber好きであることを告白しにくいことは確かであろう。
Vtuberというコンテンツの問題点
Vtuberに関する批判は往々にして「ファンに対してであって配信者そのものに対してではないのにファンが配信者を擁護する形で怒りを表明している」と言われておりあたかもファンの民度のみがコンテンツの汚点であるような言い草であるが、私個人ではそうは思わない。コンテンツというものはどの層がファンにつくかをある程度予測しコントロールできるはずだ。アイドル売りをしたら昔秋葉原に生息していたと言われている幻の典型的オタク(e.g.橋田至)のような客層がつくだろうし、「これで成功しました!」のような意識高い系の内容なら人の自伝ばっか読む自分を持てない人がつくだろう*2。故にコンテンツを生産する側にも大きな問題があるということだ。もちろん改善しろと言っているわけではない。そういう層しかターゲットにしていないのだからそもそも他人に言うような趣味ではないということだ。
ファンでない立場から見ると配信の中での内輪ノリ、そして媚びムーブはあまりみれたものではなく、テレビ番組、CM出演などメディアの幅を増やしてくると批判が立ち起こるのも理解できる。だって、そもそも大衆に向けたコンテンツではないのだから。
Vtuberは天下は取れない、だが、それでいい
ちょっと強い表現ではあるが、Vtuberだけではなく他の配信者も遍くそうであろう。趣味というものは「みんな違ってみんな良い」なんて綺麗言*3は適用されないと思っている。たとえ二次元であっても少女性愛の人間が世間から良いと思われるか?そんなの本人でさえNoと答えるだろう。程度は違うがVtuberもその一つ。みんなが良いとは思ってくれない趣味の一つなのだ。だが、別に貶しているというわけではない。コンテンツごとに大衆受けしやすいしにくいはあるだろうが、受ける層にしっかり受けていけばそれは十分なのだ。オタク向けのものはオタクだけで楽しんでいれば良いのだ。誰しもが何かしらのオタクである現代、人は自分の好むコンテンツの方向だけ向いていればいいし、コンテンツ側もより広がろうとする必要はないのだ。