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Vtuber文化について

 

みなさま〜(超絶技巧)

Vtuber、その文化はキズナアイに代表される黎明期から多くの人々に認知され、新世代の発信スタイルとしてYoutubeをはじめとした動画投稿サイトにおいて人気を獲得していった。しかし昨今では発信のスタイルは動画から生配信へ、それに伴い3Dだったアバターも気軽に個人の環境で動かせるLive2Dへと移行していき当初の面影はもはや存在しないと言っていいほどとなってしまった。おまけに主観ではあるが、初期のニュートラ*1な姿勢は失われ、オタクに明らかに媚びている姿勢が汲み取れる。これは界隈がブルーオーシャン化してきているため、ファンを徹底的に固定化し投げ銭等を積極的に自身に投じて欲しいという競争理念からきているものと考えられる。

 

Vtuber、好きとは言いづらい

現在、VtuberのファンのことをV豚といい揶揄する表現がインターネットで散見されたり、善意や推し活の一貫として投げ銭をする人を馬鹿にするような意見を聞くことが多い。盲目的に推しに貢ぐような信者オタクというものはVtuberの潮流が来る前から存在しており、より可視化しやすい、界隈外から存在を確認できるものがVtuberオタクだっただけでそのような意見はどのコンテンツにもつきものである。しかしそのせいで新たに好きになった人や一度距離をおいていた人が他人にVtuber好きであることを告白しにくいことは確かであろう。

 

Vtuberというコンテンツの問題点

Vtuberに関する批判は往々にして「ファンに対してであって配信者そのものに対してではないのにファンが配信者を擁護する形で怒りを表明している」と言われておりあたかもファンの民度のみがコンテンツの汚点であるような言い草であるが、私個人ではそうは思わない。コンテンツというものはどの層がファンにつくかをある程度予測しコントロールできるはずだ。アイドル売りをしたら昔秋葉原に生息していたと言われている幻の典型的オタク(e.g.橋田至)のような客層がつくだろうし、「これで成功しました!」のような意識高い系の内容なら人の自伝ばっか読む自分を持てない人がつくだろう*2。故にコンテンツを生産する側にも大きな問題があるということだ。もちろん改善しろと言っているわけではない。そういう層しかターゲットにしていないのだからそもそも他人に言うような趣味ではないということだ。

 

ファンでない立場から見ると配信の中での内輪ノリ、そして媚びムーブはあまりみれたものではなく、テレビ番組、CM出演などメディアの幅を増やしてくると批判が立ち起こるのも理解できる。だって、そもそも大衆に向けたコンテンツではないのだから。

 

Vtuberは天下は取れない、だが、それでいい

ちょっと強い表現ではあるが、Vtuberだけではなく他の配信者も遍くそうであろう。趣味というものは「みんな違ってみんな良い」なんて綺麗言*3は適用されないと思っている。たとえ二次元であっても少女性愛の人間が世間から良いと思われるか?そんなの本人でさえNoと答えるだろう。程度は違うがVtuberもその一つ。みんなが良いとは思ってくれない趣味の一つなのだ。だが、別に貶しているというわけではない。コンテンツごとに大衆受けしやすいしにくいはあるだろうが、受ける層にしっかり受けていけばそれは十分なのだ。オタク向けのものはオタクだけで楽しんでいれば良いのだ。誰しもが何かしらのオタクである現代、人は自分の好むコンテンツの方向だけ向いていればいいし、コンテンツ側もより広がろうとする必要はないのだ。

*1:広い層にウケるようなという意味

*2:かなり偏見です

*3:綺麗事?

挨拶


おはよう

一日はこの言葉で始まる。起きるのがどんなに遅かろうが、「お早う」と。なんとも日本語は不思議なものだと思ったが、そもそも起きるのが遅い人間の使用を前提とした挨拶ではないのだと気づいた*1。基本的には起床時、あるいは午前中の使用が想定されているのだ。

寝坊した男性



日本語には他にも「こんにちは」「こんばんは」というような時間帯によって推奨される挨拶が異なるが、やっぱり時間帯で挨拶を変えるなんてめんどくさいと思わないだろうか。他言語は挨拶にあたる言葉は英語の "Hello" に代表されるように基本時間依存しない。すなわち時間を  t とすると、対人における挨拶は日本語を  J(t) 、英語を  E(t) として、

 J(t)=\begin{cases}おはよう  \quad  (t \in 朝) \\こんにちは \quad (t \in 昼)\\こんばんわ \quad (t \in 夜) \end{cases}

 E(t)= Hello \quad (Hello = Const.)

と書ける。この他にも敬語や漢字かな混じり表記など、言語としての複雑さが日本語には極限まで詰め込まれている。これが日本語の良さなどと宣う人間もいるようだが、明らかに*2無駄である。挨拶が「こんにちは」だけで済んでしまえば他人と出会ったときに今はどの挨拶が適当であるか考えなくてよくなるし、敬語がなければいちいち目上の人間と会話するときに言葉面でも上下関係を意識させられなくなるし、小学校や中学校で何回も同じ漢字をノートに書き殴る必要もなくなる。しかし、一人称の多様さだけは何があっても守らなくてはならない。ボクっ娘は正義だ。

 

とまあ、無駄なことを書き連ねたが、ここで挨拶とはどういうものであるのかを確認していこう。

ja.wikipedia.org

Wikipediaを参考にするまでもなく、挨拶とは言葉を介さない会釈、握手のようなものも含まれることがわかるだろう。対面の際、これらを用いる人間は私も多々観測してきた。非言語的挨拶も考えると日本に限らず挨拶というものは多様な概念である。日本ではなかなか考えられないが、接吻唾を相手の手にかけるなどの衛生的にどうなんだというものもある*3。(Covid-19 の危機下ではどうなったのかなども考えかけたが、日常的に多人数との濃厚接触をしている人々がウイルスがどうたらごときで慣習を変えはしないだろうなと思った。)

非言語的挨拶の例



多様だということは、互いを理解するフェーズが必要になる。これはとてもめんどくさい。今は規制により少ないだろうが、日本という国にはすでに大勢の外国人がおり、我々日本人は他国の人間との接触を避けることはできない*4。その接触の際に挨拶で困るなんてことがあったら、その奥のコミュニケーションにたどりつけずに終わってしまう。それを避ける確実な方法、それは挨拶をしないことだ。

そもそも挨拶は人と会ったときに当たり前のようにすることなので、もはや会うことと挨拶は同じことと考えても良いのではないか。

 

挨拶をしないことが挨拶なのである

 

そう考えてしまえばもうコミュニケーションの障壁は取り除かれる。え?言語の壁?知らない子ですねぇ。

 

 

こんなこと考えても、私は他人と会うときには必ず挨拶をする。なぜか、それはみんなするからである。対面した相手が挨拶をしてきたら結局返さないわけにはいかないのだ。一般人ひとりが世の中の潮流に逆張ったからといって何も変わることはない。ただ変人扱いされて終わるだけ。結局世の中一部でも変えられるのは影響力を持った人間だけだと、そんなことを感じた今日にも一言。

おやすみ

 

*1:我が家では独自で「おそよう」という挨拶が用いられており、そのような人間にも気軽に扱える起床時の挨拶が存在している。

*2:それってあなたの感想ですよね?ーはいそうです。

*3:引用:https://otokonokakurega.com/meet/secret-base/53504/

*4:直近で接触した外国人はカレー屋のネパール人の店主