挨拶
おはよう
一日はこの言葉で始まる。起きるのがどんなに遅かろうが、「お早う」と。なんとも日本語は不思議なものだと思ったが、そもそも起きるのが遅い人間の使用を前提とした挨拶ではないのだと気づいた*1。基本的には起床時、あるいは午前中の使用が想定されているのだ。
日本語には他にも「こんにちは」や「こんばんは」というような時間帯によって推奨される挨拶が異なるが、やっぱり時間帯で挨拶を変えるなんてめんどくさいと思わないだろうか。他言語は挨拶にあたる言葉は英語の "Hello" に代表されるように基本時間依存しない。すなわち時間を とすると、対人における挨拶は日本語を 、英語を として、
と書ける。この他にも敬語や漢字かな混じり表記など、言語としての複雑さが日本語には極限まで詰め込まれている。これが日本語の良さなどと宣う人間もいるようだが、明らかに*2無駄である。挨拶が「こんにちは」だけで済んでしまえば他人と出会ったときに今はどの挨拶が適当であるか考えなくてよくなるし、敬語がなければいちいち目上の人間と会話するときに言葉面でも上下関係を意識させられなくなるし、小学校や中学校で何回も同じ漢字をノートに書き殴る必要もなくなる。しかし、一人称の多様さだけは何があっても守らなくてはならない。ボクっ娘は正義だ。
とまあ、無駄なことを書き連ねたが、ここで挨拶とはどういうものであるのかを確認していこう。
Wikipediaを参考にするまでもなく、挨拶とは言葉を介さない会釈、握手のようなものも含まれることがわかるだろう。対面の際、これらを用いる人間は私も多々観測してきた。非言語的挨拶も考えると日本に限らず挨拶というものは多様な概念である。日本ではなかなか考えられないが、接吻、唾を相手の手にかけるなどの衛生的にどうなんだというものもある*3。(Covid-19 の危機下ではどうなったのかなども考えかけたが、日常的に多人数との濃厚接触をしている人々がウイルスがどうたらごときで慣習を変えはしないだろうなと思った。)
多様だということは、互いを理解するフェーズが必要になる。これはとてもめんどくさい。今は規制により少ないだろうが、日本という国にはすでに大勢の外国人がおり、我々日本人は他国の人間との接触を避けることはできない*4。その接触の際に挨拶で困るなんてことがあったら、その奥のコミュニケーションにたどりつけずに終わってしまう。それを避ける確実な方法、それは挨拶をしないことだ。
そもそも挨拶は人と会ったときに当たり前のようにすることなので、もはや会うことと挨拶は同じことと考えても良いのではないか。
挨拶をしないことが挨拶なのである。
そう考えてしまえばもうコミュニケーションの障壁は取り除かれる。え?言語の壁?知らない子ですねぇ。
こんなこと考えても、私は他人と会うときには必ず挨拶をする。なぜか、それはみんなするからである。対面した相手が挨拶をしてきたら結局返さないわけにはいかないのだ。一般人ひとりが世の中の潮流に逆張ったからといって何も変わることはない。ただ変人扱いされて終わるだけ。結局世の中一部でも変えられるのは影響力を持った人間だけだと、そんなことを感じた今日にも一言。
おやすみ